お寺とカフェ

京都西本願寺で全国から集まるご住職の皆さまや医療福祉に関わる方々が集まる会にてお話しとワークショップをする機会に恵まれました。善了寺の成田ご住職からお声がけいただき、この大変貴重な機会をいただきました。ありがとうございます。

△京都・西本願寺

お招きいただいた会は医療・福祉・仏教という連携でどう支援が必要なひとをコミュニティで孤立させないかということがテーマで200人ほどが全国から集まる場でした。冒頭は経済学者の井出英策教授による2時間にわたる講演でした。このテーマの会の冒頭に財政社会学・財政政策学・産業社会論の専門家をお呼びするという組み合わせは興味深いものですが、テーマにぴったりで「人を置き去りにしない社会をどう作れるか」を考えさせる講演でした。(この井出先生をお呼びになったのも成田ご住職、そのコーディネーションがすごいです)

井出先生の話はとにかく熱く、会場がどんどん引き込まれていくのが分かります。要点を書くと、井出先生は家が貧しく様々なご苦労を重ねてきたなかで悔しい思いやおかしいんじゃないかと思うようなことをたくさん経験したとのこと。「支援」や「救い」は大事だけど、その「救い」を受ける側に嬉しいだけではない恥ずかしさ屈辱が心に刻み込まれるような感覚があること。そんな気持ちにならなくてもお金あるなしで人が選別されずに生きていけるような社会でないといけないし、障害があったり病気になったり働けなくなったらここまでの不安抱えないといけない社会を未来の世代に引き継いではいけない。という言葉が節々に出てました。

また、日本特有の「貯蓄」傾向についても話がありました。子どもの学費、住宅、老後の備えを考えて貯蓄しようしようと日々の暮らしを切り詰めているのが今。自己責任でそれをなんとかするのではなく、ベーシックサービスとして大学無料、医療費、介護に関わるサービスは全て無償化すること、最低限生きていくための保障を厳しい環境にいる人にしていくこと(品位ある最低保証 decent minimum)を目指したほうがよいのではないか。その代わりその財源確保の議論からも逃げてはならないという話が後半の1時間を閉めていました。そういう社会をつくりたいというところまではみんな賛同するがそのための財源確保のために増税というとその議論からみんな逃げているとも。

最後に、ベーシックサービスと品位ある最低保証だけでなにもかもかよくいくという話でもなく、どれだけベーシックサービスを充実させても社会的に孤立していては幸せには生きられない。少しの眼差しやたった一つの声かけで変わることもある。人間が声なき声に対して答える力(応答する反応する)を持っている存在であることに触れ、人の本来の優しさを引き出す仕組みを市民レベル・地方・国レベルで最後まとめてました。

私のざっとしたまとめはかなりざっくりしてるので興味ある方は井出先生の講演内容の概要とほぼ近しい内容がこちらにまとまっているのでぜひ。

また、そのあとは分散会で皆さん講演受けて各分科会に分かれて2時間以上議論し、夜は懇親会、そして朝は6時から本山での朝のお勤め(大変貴重な機会でした)、朝8時過ぎ会場入りし、今度は自分の分科会での講演とワークショップの準備に入りました。2時間半もお時間いただけて成田ご住職の司会進行のもと安心してできました。

私からは、前日の講演を受けて構成を少し変え、「知ること」についてもう少し深堀をしてお話ししました。そもそも知ってる範囲の外側に出にくい構造が(特にオンライン上のSNSや検索システム、買い物ですら)あります。私自身もそうです、知らず知らず無意識に知りたい事だけを知ろうとしています。「知らないことを知らない」ということが増え、知りたい範囲しか知ろうとしない。高齢になっていく祖父母とも一緒に住んでいない。障害がある人が何を想い、何を願い、何を面白いと思っていて、どんなことが好きで、何故特定の行動をとるのかを知るきっかけもない。交わる場も皆無に近く、結果、ライフステージが変わり、見えなかった世界が自分や自分の家族のごとになったときに大きく戸惑い孤立しやすい。そんな中でいろんな立場の人のことを「知ろう」と呼び掛けても案外「知りたい」がベースにない世界ではかなり難しいことです。

カフェは「知ろう」として行く場ではないです。行った足を運んだ、その先に「知ってしまった」がある装置だと思っています。また、こまちカフェに通っていた方から人や社会への信頼をここで取り戻したという言葉を以前いただきました。人って社会って冷たくないのか、ということをじんわり感じるところが実は「知る」の出発点なのかもなと思うような場面によく出会います。
知る前に「安心」が必要なんじゃないか。少しずつ安定した場や安心できる空間を得て、少しずつ自分の違和感や異なる価値に触れることへの冒険心や恐怖が薄れ、時々目や耳に入ってくる情報から自分のコンフォートゾーンの外側を「知りたくなる」そんなことが起きるような仕掛けについて、事例を混ぜながらご紹介をしました。

1日目の話にもありましたがソーシャルワークの狭義ではなく広義を捉えると、日常的に人が通う場・足を向けている場の中にどれだけの「受け止め」の機能があるか、誰かが困難を抱えて厄介な課題に直面するときに、学び合い支えあることをコミュニティの中でできるかが大事です。この2日は、そんなことをそれぞれの立場の方が考える場でした。

△お寺で七五三。こよりどうカフェではお祝い膳をその時期用意しています。
みんなで子どもたちの成長の節目をお祝いできるといいですね。

個人的にはお寺とカフェの可能性を更に感じた時間でした。深い喪失を受け止めているお寺と社会との接点や小さな出発点をつくっていくカフェとが協働できることはいろいろあるんだろうなとも思いました。

ヨーロッパの研究者の間では専門職によるサービス提供から(service delivery)から「コミュニティ形成」(community development)へという議論が盛んで、それは社会全体を一気に変えることではなくまずは『一人ひとりが身を置く小さなコミュニティで学びあうところから』ということが道中読んだ「コンパッション都市」にも書いてありました。自他の脆弱性やもろさから目を背けることも隠すこともなくまさに薄い紙を「紙縒る」(こよりどうカフェの語源)ように集える場をつくっていきたいとおもいました。簡単ではないけど、その実践を葛藤しながら日々重ねている現場スタッフに改めて敬意と感謝の気持ちでいっぱいになりました。

あっという間の京都2日間。結局2日過ごして泊まらせていただいた西本願寺の敷地外以外はどこにも行きませんでしたが、いつかゆっくりプライベートでも改めていきたいなあ・・・貴重な機会をいただきありがとうございました。

△朝のお勤め後。朝焼けが綺麗でした。